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半年ほど前、6年卒業時の友人数名で、80いくつになられている当時の担任の先生に会いに行く計画を立てたことがあった。結果的に8名の者が恩師に会うことが出来たのだが、この計画が進められている中で、私にとってショッキングなことがあった。そのことから、以下の論を書く気になったのである。
学区域に住み、社会的な活動を今も盛んに続けている女性の友人が徒歩数分のところにある卒業した学校を訪ね、学校長にわれわれの計画を述べ、手許に何の資料も残っていないため卒業生名簿を見せて欲しいと申し入れたところ、「個人情報に関することだから見せるわけにいかない」と言われたのだ。面と向かって言われた彼女も、あとでそれを聞いた私も唖然として文字どおり言葉を失った次第である。今時の校長は教育者というより単なる公務員つまり事務屋なのであろう。事が面倒になったときに上司(この場合は教育委員会)に言い訳ができないと困るわが身を考えてのそれは処置だったのだ。
この稿で教育者論を述べるつもりはない。そうではなくて、校長室にまで「個人情報」という概念、個人情報は秘匿すべきものという通念が無批判に浸透している現実を問題にしたいのである。このところテレビを観ていても、特に事件にかかわる場面で当人以外の人が映ると顔をぼかすケースがだんだん多くなっていることに気づく。そのうち学校の卒業アルバムは本人だけ顔がはっきりしていて他の生徒の顔はぼかされるのではあるまいか。なにしろ個人情報とやらがいっぱい詰まっているのが卒業アルバムなのだから。
50年前のことを言えば笑われるが、当時プライベートという言葉は一般語だったが「プライバシー」という言葉はまだ一般的には知られていなかった。確か1960年だったか、三島由紀夫の小説「宴のあと」の中で元外務大臣有田八郎の後妻である料亭(?)の女将を取り上げたことが、有田八郎から訴えられ裁判になったことでプライバシーという新しい概念が一般に知られるようになったのである。今日でも小説やマスコミ報道でこのプライバシーは裁判論議になるが、しかしその場合は常に個別具体的事例においてである。
ところがいつの頃からか「情報」という言葉が、「とっておきの情報」とか「秘密の情報」、「政府間の情報」というときに使われる情報ではなく、ごく一般の事柄をもなにかまことしやかに「情報」というようになり、そこから名前、年齢までもが「情報」として一括りされるようになった。もちろんその背景には、名簿を悪用する悪徳商法があったからだが、だからといって個人に関することならなんでも情報として秘匿しようとする社会風潮は、そもそも市民から突き上げられないためにとる行政の体質がことさら煽ったものであろう。すると市民自身が情報とはそのようなものであると思うようになるから恐ろしい。先の学校長もそうした風潮を無批判に実行したまでである。世の中の衛生思想が高じて公共便所の便座に紙を敷いたり、なんでもかんでも抗菌グッズのラベルを貼るのとそれは同じである。そんなに不潔が気になるなら、電車のつり革はつかめないであろうし、紙幣もさわれないであろうに。
社会人という言葉がある。市民という言葉もある。選挙民という言葉もある。すべてこの人間社会を構成している個人である。少なくとも成人であれば自分の顔つまり容姿、名前、年齢、住所に関してはその本人に責任がある。その人間の行動のすべてに否応なくついてまわるいわばそれは属性である。これは秘匿されるべきものではなく、本来は公開されるべきものである。それゆえその人間は己の権利を主張でき、その人権も守られるのである。
顔写真や名前を出すことが憚られる世の中は個人が存在しないいわばのっぺらぼうな社会である。無責任社会と言い換えてもいい。行政が市民を庇護する社会、市民は行政に庇護される存在に成り下がってしまった社会、それが現代社会というべきか。
目下のところ行政による住民基本台帳と個人情報との関係がとりざたされているが、それよりもなによりも防犯カメラが町のいたるところに設置され、われわれ市民の行動をくまなく映像におさめていることこそ問題にしなければならないのではないのか。確かにそれは犯罪捜査に大いに寄与しているとはいえ、だからといって市民一人一人の行動がすべてカメラにとらえられている現実がいいはずがない。まぎれもない個人情報の無断収集だからだ。そんな社会に安住している市民という存在こそ私には理解できない。
昨日は学園見学者2人を含む8人で裏山に入り、枯れ木や間伐したヒノキを軽トラ3台で2往復した。風呂やストーブで燃やすからまだまだ足りない。落ち葉さらいといい薪集めといい、夏場の作業とは違った筋肉の動かし方が私たちの肉体を鍛えてくれるのだ。
話は全く変わるが、一昨日食卓の端で新聞を読んでいたら妻が食卓の上の容器の中から何かを摘んで食べている。私は何気なく「何食っているの?」と言ったのだが、それに相手が答える前に言った当人が思わず笑ってしまったものだから、妻は怪訝な顔をして「嫌な人!」とでも言いたげな様子であった。以下は私の弁解というか講釈である。
ふつう「何食っているか」と言えば食べている物の種類を指すし、自分もそのつもりで口に出したのだが、実は口に出した瞬間になぜか遠い昔の記憶が甦ったのだ。それは腹を空かしている人間が今まさに腹に食い物を入れている人間に対して「何食っているか」と問うている。そんな自分を発見し苦笑したのである。
戦争を挟んだ10年がおそらく国民全体が本当の空腹を味わった期間だっただろうが、食べ盛りの少年にとっての戦争直後の空腹感はそれは耐えがたいものだった。疎開先の家に身を寄せている一家は土地の人から分けて貰うわずかな芋や魚でその日をなんとか食い繋いでいる毎日であった。親は当然ながら自分の食うものを減らして子供に与えていたのだが、夜子供が寝静まってから疎開先の叔母たちも交えて食卓を囲んでささやかな茶飲みをすることがある。隣の部屋で寝ている筈の子供は障子の穴からその様子を覗いている。「何食っているんだ」と。
妻は私より3歳若いが、戦争直後に学齢に達していたか否かでこうした記憶に決定的な違いがあるように思う。例えば餅にカビが生えていれば妻はそれを捨てようとするし、私は表面を削って食べようとする。カビは発ガン性がある から、それを避ける妻の行為はわからぬではないが、私は敢えて表面を削って食べるのである。私は子供の頃にカビ餅ばかり食べていたから(当時は冷蔵庫などない
から保管はわるい)餅につく赤紫のカビ、青色のカビ、黄色のカビの味をそれぞ れ区別して今でも微かに記憶している。そしてカビを食べていた私が今もって健康に生きているではないか。そんな自負がある。
アメリカ駐留軍がばらまいたチューインガムが引き金になって、戦後直ぐは粗悪ではあれ国産のチューインガムが飛ぶように売れた。子供は口が淋しいから食いかけのチューインガムを教室内で交換しあったものである。チューインガムが買えない子供はどうするか。小麦粉を水で練って団子にし、それを流水に当てて手の中で揉むのである。すると透明に近いグルテンだけが残り、口の中で咬んで も減らず味はなくともチューインガムの役割をするのである。
戦争中ジャングルの中でヘビやカエルを追い回した体験をお持ちの80代後半から90代のお年寄りは、果たしてその記憶を食物に向き合った何かの拍子に甦えらせることがあるのだろうか。おそらくあまりにも過酷でむしろ消し去ることを人生の課題にしてきたのではなかろうか。
賞味期限切れのコンビニ弁当をどうするか、食品の産地表示が違っていたからすべて回収廃棄した──等々、すべてこうしたきれい事はこんにち日本の平和の象徴には違いないが、悲しいと言うなかれ、こうしたニュースが流れるたびに私の食に対する遠い記憶が鮮やかに甦るのである。
景気とは、商品が良く売れること、つまり生産と消費が活発になり、貨幣が生産者や販売店の懐に入り、そこに携わる人の所得も上がるという貨幣の流通の活発化にほかならないのだが、その根源はなんといっても生産活動にある。農業生産であれば、その基は太陽エネルギーの変換に過ぎないし、受け手の人間の胃袋にも限りがあるからある程度バランスの上に成り立っている。しかし、食糧以外の消費財は人間の欲望を刺激することによって、生活環境のあらゆるところに無限に近く蓄積することになる。換言すると、食糧生産以外の生産は、その本質において資源の消耗であり環境の破壊である。
さて、民主党が掲げている公約の一つに「高速道路無料化」がある。麻生政権の「土・日曜日高速道路一律1000円」のさらに上を行ったものでる。すでに賛否両論あることはご存知の通りだ。しかし、その両論のどちらも触れていない問題がある。
今から140年前の日本に思いを馳せてみたい。明治維新後の日本はイギリスの産業革命に遅れること100年、文化的には欧米に匹敵する、いやそれ以上の高さを誇る生活をしていたとしても、工業生産が産み出す富の蓄積は欧米の比ではなかった。その明治の日本が財政の貧しい中でまず行ったことは、国の隅々に鉄道を敷いたこと、学校を作ったこと、郵便局を設けたこと、である。そのうちの学校について言えば、公立の小学校だからすべて県や国が建てたというのではない。村の篤志家や村民が金を出し合って建てた村立の小学校が全国にいくらでもあった。大方の庶民にとっての日常が食べることに精一杯の時代の、それは当時の社会全体に普遍してあった子供の教育への義務感がなさしめたものに違いない。
翻って現代はどうであろう。物はあふれ、飽食にうつつをぬかし、海外旅行もまた庶民にとって当たり前の時代である。つまり食うに困らない金が懐にあるのだ。その現代を支配している通念としての経済合理性はといえば、小規模の小学校を廃校にして大規模校に統合させ、特定郵便局を廃局に追いやり、ローカル鉄道を採算が合わないからと廃線にしているのである。思うに、貧しい明治人が営々として築き上げてきた国という肉体の毛細血管(国の財産)を裕福なはずの現代人がずたずたに切り落としてきたのである。血液が通わなくなった地方が幸せになる道はない。当然ながら人口の大都市一極集中が加速することになる。
高速道路を無料化すると観光客が地方に来るから地方に金が落ちるとか、地方の生産物がうまく都市に流れるとかいう説があるが、それは真っ赤な嘘である。
そもそも車社会は、市民一人一人が自分の意のままになる奴隷(車)を抱えている社会のことで、従って車という奴隷を私物する自分(主人)が社会の中での第一の存在であり、自分が身を置いている地域社会のことは二の次なのである。高速道路が無料化することは、車という奴隷をしたがえた住民が自分が住まう足元のことなどどうなろうとお構いなく、自由に他の地域に飛び出すことを助長す
るもので、地方は益々空洞化することになる。
物流の面を考えても、一般車の乗り入れが多くなると道路は渋滞をきたし、当然宅配便など配送車の遅延は起こるから、物流はむしろ鈍化する。トラック輸送という極めて非効率ながら「行動と時間に制約されない」という物流手段の唯一の利点が崩れることになるのだ。そして当たり前のことだが排気ガスなど環境汚染が深刻化する。最近になって鉄道各社が利用者減を理由に高速道路無料化に反対の声明をだしているが、当然のことと言うべきである。
これは誰も言っていないことだが、私はローカル鉄道の無料化ないし大幅料金値下げこそ今やるべきことと考えている。高速道路の歴史はせいぜい40年程度、そこに使われた巨額の建設費のどれだけが償却されているのだろうか。その高速道路を一般道と見なすとはどういうことか。無料化とは投資した金をチャラにすることである。一方、鉄道の歴史はすでに100年を下るまい。日本の近代国家を作る上で十分にその役割を果たしてきた鉄道こそ、今や一般道路と見なしていい資格をもっているのだ。
過日、国土交通省発行の「鉄道統計年表」(平成18年度)を開いてみたのだが、北海道、東北などの地方ごとにJRと私鉄の100キロごとの損益など年間の収支報告は載っているのに、たとえば飯田線や土讃線の営業はどうかなど個別のローカル鉄道についての損益は載っていなかった。したがってローカル鉄道の収支の実情を把握することは出来なかったが、おそらくその多くは赤字路線のはずだ。
国に高速道路を無料化する意志があるのなら、逆に高速道路料金を鉄道維持の財源に回し、国がローカル鉄道の無料化ないし大幅料金値下げをし、地方の鉄道を活性化させるべきである。通勤者はもちろんのこと、お年寄りや青少年の行動半径が広がり鉄道利用者が増えれば、鉄道駅に通じる地方のバス路線も息を吹き返すであろうし、駅前の商店も繁栄するはずだ。
半世紀前の鉄道輸送を思い返してみると、貨物列車は50輌の貨車を列ねて走っていたものである。この50輌の貨車をトラックに見立てたらどうだろう。トラック輸送がいかに非能率であるかがわかると思う。鉄道の線路は建設当時にあっては考えられる最短コースを通っているから運行距離の上からも効率が良い。全てコンテナ方式を採用し、トラックターミナル駅を新たに設置して、そこからトラックが放射状に宅配するというのはどうであろうか。トラックターミナル駅から国道や県道に通じるバイパス道路をほんの少し新たに建設することの方が余程地域の活性化に寄与するはずだ。
自動車産業がいかに日本の経済を支えているからといって、これ以上道路を造ったり、道路に車を走らせることはご免被りたいものである。欧米諸国の自治体が今なお平均人口7000人から10000人であるその存立の意味を探り、日本も大都市集中型から文化と経済の両面で活力ある地方都市再生にむけ新たな舵をとるべきであろう。毛細血管であるローカル鉄道にこそ国は大胆果敢な施策の目を向けるべきではないか。地方分権の議論はそれから後のことである。
私のところでは鶏を100羽ほど飼っているが、飼料の青物としては土手や田圃の縁に生える雑草(主にメヒシバ)と野菜くずを与えている。遺伝子組み換えの輸入トウモロコシを避けて国産のくず小麦を主体にした餌だとカロチンが不足して卵黄がどうしても薄いレモン色になってしまう。だから草のよな青物を与えなければならない。雑草は自前調達だけれど、野菜くずは知人の有機農家Yさんが処分に困っているのをこちらが「これさいわい」と引き取るのである。
この知人Yさんは、元は大手コンピュータ会社の技術者で、50も半ばを過ぎてご夫婦で専業農家に転向した人である。年間約10数種類の野菜をJAやさとの有機部会を通して首都圏の生活協同組合に出荷している。JAやさとは合併による農協の大型化の時流に乗らず、地域農協として独立を守っていて、早くから有機農業にも力を入れている稀にみる優良農協である。生産者独自運営による有機部会を組織内に設けて有機農家を支え、また毎年1組の夫婦を2年間住居と耕地を提供して研修させ、これまでに何組もの有機農家を地域に送り出している。有機栽培による新規就農の若い生産者は、まずこの有機部会があるおかげで就農の初年度から生活の基礎が保障されていると言ってよかろう。
この夏は毎週1本30円もするキュウリがコンテナに7〜8箱廃棄扱いで貰い受けた。鶏は水を飲むよりももっぱらキュウリを食べて水分補給をしていたのではあるまいか。それが春先にはレタスが大量に出る(なぜかレタスがいちばん黄身の色を濃くするように思えた)。秋には股割れニンジンがこれまた大量に。小松菜も、これは春に急に陽気がよくなるとトンネル内で小松菜ならぬ大松菜に変身するので、草刈り機で刈り取るくらいにして貰い受けることになる。
小松菜の場合は別としても、ほとんどそのまま台所に持ってきて通用する野菜が大量に廃棄されることに、貰い受ける私は大いに心が痛むのだが、生産者のその痛みは我々の想像を超えているはずだ。なぜ、こんなことになるのだろう。工業製品でもあるまいし、野菜だって泣いているに違いない。
Yさんに聞いてみた。一例を挙げると、キュウリはサイズが16〜25cmまでで、曲がり具合は最高で5cmだそうである。これは有機だからまだ基準がゆるく、慣行栽培だともっと厳しいらしい。ゴーヤは30cm前後で350g未満。小松菜は20〜30cm、レタス1個300〜700g以内、ニンジンは3本で500g程度。股割れは不可。カボチャは尻にいぼいぼがあれば不可。いずれも生産者が規定の袋に詰めて出荷することになっているので、その袋に入らなければ自動的に廃棄物の方に回される。それに出荷量としての品不足が許されないから、どうしても余分に作付けすることになる。
どんな理想的なことを掲げていても生協は今や一般商社と変わらない。消費者を教育するのではなく、消費者におもねることで組合員を獲得する途を選んでいるからだろう。
同じ地域に住む新規就農の別の知人は、東京に住む息子の家のガレージに定期的に店を出して自分の野菜を売っているが、規格外の野菜を別に袋詰めして低価格で売ると、そちらの方から先に売れてしまうという。だから、本来消費者は質が良ければ形よりは値段のほうにこだわりをもつのだと思う。つまり、流通過程と販売形態が問題なのだ。
それならば、学校給食にこうした規格外の安全な野菜を安く使えば生徒の親も生産者も喜ぶであろうにと思うのだが、それもままならないらしい。既得権益とでもいうのか、自治体に出入りしている業者が決まっているらしく、「新規参入」は認められていない。もっとも、こうしたことは自治体の長が毅然と断行すれば出来ることなのだが、だいたいが慣例に従っているから、事は一向に改善されないのである。
話を果物について述べると、欧米では売り場の写真を見ても、また実際に店頭を覗いてみても、並べてあるというよりは積んである果物はどれも不揃いの感がある。日本でおなじみのきれいなレースの衣服にくるまった扱いでの売り方はされていない。
欧米人は果物を日常の食事に欠かせないものと捉えているからだろう。日本人は何でもそうだが、果物はとりわけ芸術品のように立派に仕上げる。傷があるものなど店頭にない。それが却って果物を高価な贈答品に押し上げてしまい、日常の食生活から遠ざける結果となっているのだ。規格品のような観念を取り除けば、果物の消費はもっと家庭に浸透すると思うのだが。
資本主義社会の先進国で商品経済まっただ中にあるはずの欧米社会が自国の一定の歴史的テンポを守って慎ましい市民生活を送っている一方で、その点では後進国である日本が、ペリー来航以来のショックが未だに尾を引いているのか、自国にふさわしい歩みのテンポとはなにかなど一度も顧みることなく、明治以来今日まで、あらゆる生産場面で相手を出し抜くことにのみ神経を使ってきた結果、生活協同組合という本来生活福祉に目を向けるべき組織にあってなお、野菜や果物が工業製品の如く扱われているのだ。悲しいというより情けない現実である。
今回のセミナーの特徴は現在の「百姓の家」住人の圃場を見てまわったこと。夜は「百姓の家」住人も加わり、ワリカンでビールを買い込んで酒宴と議論。なかなか盛り上がった。
昨日は衆議院解散。記者会見で麻生総理が悲壮なおももちで、自民党のこれからの政策理念を述べていたが、戦後の長い保守政権のゆがみが今日の社会を生んできたのであって(と言って仮に革新政権が誕生したとしてどれだけのことができるかは別としても)、今更の感がある。
まず、自殺率は日本は世界第8位。1位から7位までは旧ソ連の小国。したがって先進国では日本はトップなのである。一方、日米同盟の相手国であるアメリカは42位。つまり国民の精神面・経済面を考えると、この同盟は自殺をみるかぎりどうやら対等とは言えない代物だということである。この自殺大国日本の自殺者数は、この10年間の保守政権の下で例外なく約3万〜3万3000人台を持続していて、この数値は年間の交通事故死者数の約5倍。1日あたり約90人が未来に絶望して死を選んでいるのだ。未遂者はおそらくその10倍であろう。毎年地方都市1つが消えていく勘定になる。
麻生総理の記者会見で気になったもう一つのことは、「100年に一度の経済不況」という言葉である。これはマスコミも同じく吹聴してしるから、マスコミも悪いのだが、こフレーズはどうも眉唾ではなかろうか。確かに自動車産業の落ち込みであらゆる産業が停滞していることは事実だし、アメリカの不況の影響をモロに受けていることは事実だが、ほんとうに「100年に一度」の不況なら、海外旅行に行ったり、わざわざ皆既日食を観に離島に行くような国民はいないはずだ。このフレーズは、厳然としてある日本社会の経済格差を隠蔽するためであり、不況の名のもとに派遣労働者の切り捨てを正当化する(そうしたムードづくり)ためとしか思えない。
やや古い統計だが、「世界の冨の分布」国連大学・世界経済開発研究所、日経新聞06年12/7によれば、今日の金融資本主義経済がもたらしている世界的な富の偏在、貧困・格差の実態は以下の如くである。世界の個人的資産(不動産や貯金から借金を差し引いた個人的冨)に関してみると、日本やアメリカなどたかだか世界の10%の人口(民族)が全体の77%の冨を独占し、さらにその内実はわずか1%の最福裕層が、世界の資産の40%を保有し、2%の金持ちが、世界の冨の50%を占有しているというのだ。裏を返せば、世界人口の半数以上にあたる貧困層の資産合計は、世界総資産の
1%程度だということである。つまり、「100年に一度の経済不況」というその不況は、世界的にみれば全体の10%の富める国の中でのことにすぎないのである。
衆議院選挙で自民党から共産党まで、「国民の暮らしの安心と向上」というとき、私達はただその甘言に乗るのではなく、まったく別の視点で自らの暮らしの世界像を思い描く必要があるのではないか。
今年は鈴木、松本、加藤、高木、田中さんと妻浩子、それに私の7人で登った。頂上まで一直線の登山道を約10分、休まずに一気に登る。いつもながらこの時の息切れ具合で自分の加齢からくる体力の衰えを自覚することになる。
早朝5時半に山頂に着いたがまだ他にだれも上がって来ない。どうも神主の到着が遅れているらしい。神社の周辺を2週間ほど前に集落の人が草刈りしたらしく、その跡にすでにたくさんワラビが生えていて、われわれは早速ワラビ採りに夢中になった。6時過ぎに神主と集落の人々が小学生を含め約60名揃い、祝詞とお祓いと参拝で神事を済ませ、御神酒、紅白菓子、赤飯の握り飯2個ずつをもらって下山。「百姓の家」の住人は、「これで今日1日のご飯は間に合いそう」と大喜び。
日にちは遡るが、5月16日に東京池袋のサンシャインビルで「新農業人フェア」が開かれた際、会場でJAやさとの柴山進さん(NPO全国有機農業技術会議の参入相談検討委員をしている)が相談を受けた横浜の山木さん(30歳)と東京中野の木戸さん(31歳)が6月に相次いで「百姓の家」の見学実習に来た。柴山さんから「ここ八郷での新規就農希望の窓口をスワラジで」という依頼があったことによったもので、私が応対をさせてもらった。2人ともここへ来る前に既に八郷の有機農家である嶺下
さんのところで実習したというだけあって、極めて意欲的。思うに、こうした都会育ちの若者の農業志向はこれから大いに増えるのではなかろうか。そして帰農に向けてのワンステップにここセミナーハウス「百姓の家」が役立てば良い。
7月1日の山開きが農家や大工や瓦職人など地元で生まれ育った住民により遠い先祖から引き継いできたものとすれば、都会育ちの若い新農民もまた新しい土地でのこれら伝統文化にすすんで馴染んでもらいたいものである。
この日、「屋敷の大木を何本か切ったので、スワラジの薪用に取りに来てほしい」との依頼が同じ集落の元町長の奥さんからあった。山開きに参加した面々、それ!とばかり軽トラ3台を駆って2往復、薪の山を積み上げたのである。スワラジ学園はこの集落では一種の異物ではあるが、どこかで頼りにされている面もあるのである。
5月の26日から6月3日まで田植え。17アールほどの谷津田だから大した面積ではないが、初めて田圃をやる竹脇さんと鈴木さんが加わり、それに斉藤さんと私の4人がかりでこれだけの日にちがかかった。しかも途中で竹脇さんの応援部隊や私のところにここ八郷移住の相談に来た成田三里塚の藤巻・木全夫妻も交えての結果がこれ。雨にたたられ何度も中断したためだが、苗代から良く分け つした苗を選んで、それを1本ずつ植えるのだから機械植えのようにはいかないのだ。上の田圃では田中勝子さんが自然農法での稲作。去年まで長年放置されていた荒れた田に縄文遺跡の発掘跡のようなきれいな溝ができ、いま苗が育っている。おそらく6月15日頃に1本ずつ丁寧に苗をすくい取って植えるものと思われる。同じく自然農法グループの松本さんと秦さんも数キロ離れたところに田圃を借りていて、やはり田中さんと同じ頃に田植えをするのだろう。もっとも、昔の農家の田植えは梅雨に入ってからの、蓑を着て菅傘を被って雨の中でするが当たり前だったから、自然に叶ったやり方ではある。近年のは、秋の台風を避けて、どんどん田植えの時期が早まっているにすぎない。
わが「百姓の家」の住人の田植えがすべて終わったところで、5月に加わった女性の加藤さんの歓迎会を兼ねて「さなぶり」を予定している。もちろん各自1品持ち寄りだ。ところで、松本さんが過日「ガスオーブン使っていいですか」というから「どうぞ」と言ったら、見事なパンを焼いてきた。あんパンもある。竹脇さんのハーブの香りのきいたサラダも絶品。鈴木さんのスープも良し。11人居る住人それぞれ料理に関してはなかなかの腕をもっているから、この1品持ち寄りはいつも愉しみだ。
ところで、藤巻・木全夫妻のように、「八郷を車で通過したら、こんなきれいな村はない」と感動してこの地に移住を決めた人はこれまでにも多い。国道が1本もなく、したがって道に大きな看板がまったくない。周囲はなだらかな山に囲まれている。まさしく「まほろば」なのだ。日本100選「茅葺きの里」に選ばれただけはある。そんな訳で、私は空き家探しの相談を受けることが多く、いわゆる「物件」をいつも頭に入れているのだけれど、なかなか他人に貸す空き家となると見つからない。立派な家が空き家になってはいるものの、出ていった兄弟が仲が悪く話がまとまらなかったり、仏壇があるから無理といった按配で、交渉にあたっても二の足を踏むケースが多い。行政や農協あたりが間に入って、率先して空き家活用を計れば、新規就農希望者が増えるであろうに。
前回の日誌から1と月が経ってしまった。
男の加藤さんが結婚して退寮したのと入れ替わりに、5月8日に女性の加藤さんが入寮した。3月17,18日の「いしおか有機農業公開講座」に参加したことが縁での入寮である。 これで女性が2人になり、「百姓の家」もなんとなく華やいできた。加藤さんの実家が水戸にあることから、9日にはご両親とお兄さん夫婦が早速見学に来た。得体の知れない宗教色のある団体の 寄宿舎とはほど遠い「百姓の家」、もしそんな疑いをもたれたのなら安心されたことだろう。
宗教色といえば、住人の秦さんは『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)の信奉者で、いずれはこの地に仲間で小さな農的コミュニティーをつくる考えがあるらしい。ところが本の内容はぜんぜん宗教色はなく、人間一人一人に生きる自信をもたせるようなメッセージが散りばめられており、秦さんは物質文明を見直す志で温かな心の通いあう新しい家族的な農的コミュニティーを描いているようだ。目下土地を探していて、私も少なからずそのお手伝いをしている。
学園5回生の松山さん(41)が2回生の佐藤さん(54)と一緒になって二人が住める空き家を探していて、やっとこの度、ここ八郷の南西に位置する菖蒲澤部落の静かで絶景の場所に空き家を借りることになった。私の碁の仲間が間に入ってくれたことで実現したもの。元陶芸をしていたお年寄りが住んでいた家だから、まだ登り窯がそのままある。陶芸の趣味のある人が友人にいたら、こんな好条件はない。
周囲の田圃はこの連休の前にあらかた田植えを終えている。我々の田植えは今月の終わり頃。苗は出揃ったし、田には水も溜まっている。世の中には五月病というのがあるらしいが、ここ農村では今はなぜか力が漲る季節だ。
4月6日に苗代をつくり、10日に種籾を蒔いた。「百姓の家」住人の3人と私との共同作業。15アールほどの7枚の田で一緒に米つくりをするのだ。斉藤さんは去年も一緒だったが、竹脇さんと鈴木さんは初めて。田圃のすぐ脇にある新住民の佐々木さんがわれわれの作業を遠くから見ていて、一緒に「遊ばせてください」と、作業の一部を手伝ってくれた。このところ晴天が続き、青い空に桜のピンクが映え、地面には菜の花の鮮やか黄色が添えられている。そんな景色を見ながらの作業は、巡り来る春の至福の時である。
周囲の農家はハウスの中で田植機に乗せる箱苗を育てていて、おそらく今月の末には一斉に田植えが始まるはずだ。だいたい25日ほどの稚苗を一箇所に5〜6本植えることになる。スワラジの私の場合は、苗代に文字通りの薄蒔き(おそらく慣行農法の50分の1以下)にして1本の苗を大きなしっかりとしたものに育て、手で1本植えをする。この「薄蒔き」は人の手でぱらぱらやるのだが、どうしても均一にならない。そこで倍量の籾の半分をフライパンで炒めて殺し、それを均一に混ぜて蒔くとそ
の半分は死んでいる籾だから、薄蒔きができるというわけだ。
籾を蒔いた上にあらかじめ作っておいた肥料分のある焼き土(雑草の種がない)を撒き、水の高さを調整して、有孔のポリフィルムのトンネルをかける。こうして苗代が完成するとあとは5月下旬の田植えを待つばかりだ。
参加者の年齢も20代から60代までさまざまで、「もう一つの生きる道」を真剣に模索している様子が窺われた。夜の懇親会は若者を中心に明け方の4時まで語り明かしたほどであった。この講座に参加した秦さん(51歳)があたらしく「百姓の家」の住人になった。松本さんと同じ自然農法のグループの一人で、商品経済社会から脱する農的暮らしのコミュニティーを模索して、近々その立ち上げを松本さんと企てているという人である。
昨年の5月に入居した加藤さんが結婚するためここを離れるということで、その送別会と、この間に入居した田中さん・秦さんの歓迎会を兼ねた宴を24日の夜に催した。いつものことながら、それぞれ料理一品持ち寄りで、各自煮物あり、サラダあり、スープ、ホウレンソウのプリンあり、となかなか手のこんだ品が揃った。ふだん自炊生活をしているから、こんな時に腕を振るうのだろう。
稲の種籾の選別も終わり、いよい苗代に種を蒔く準備だ。毎年4月10日が種まき日。
きょうはその前のやや暇な時間だ。1ヶ月前に切り出したクヌギの丸太のほだ木にシイタケ菌を打つ作業を皆でした。


